私の尊敬する武将!
私が尊敬する戦国武将!
戦国の世が終わる最後の戦。大坂の陣にて、「日の本一の兵」と全国の諸大名に言わしめた武将・真田幸村についてです。
この真田幸村という名前なんですが、本名を真田信繁なんですね。
なぜ、今日幸村の名前が一般的になっているかといいますと江戸時代の物語に幸村という名で登場し、そこから一般に広まったのです。
ということなので、ここでは、一般的な幸村の名で書きたいと思います。
幸村がまだ幼かった頃、主家である武田氏が滅亡してしまいます。
そのため、父昌幸は、各大名を転々とし、幸村も人質として上杉景勝や豊臣秀吉のもとに出されていました。
幸村の初陣は、24歳と遅く、秀吉の「小田原征伐」が最初でした。
その後、兄である信之が本多忠勝の娘・小松姫との婚姻がきっかけで徳川家康の与力大名になったため、幸村が父・昌幸の後継者となり、常に父と行動を共にします。
1600年、関ヶ原の戦いの時には、父・昌幸と共に西軍につき、兄の信之は、東軍についたことで家族が敵味方に分かれての戦いになってしまいました。
この関ヶ原の戦いでは、幸村は、父・昌幸と居城である上田城に籠り、徳川方三万の兵をわずか三千で迎え撃ち、大損害を与えました。
ですが、御察しの通り、西軍が敗れてしまい、昌幸と幸村は、高野山の麓にある九度山で謹慎となりました。
それからは、世捨て人同然の暮らしを余儀なくされ、そこで最愛の父・昌幸も亡くなってしまいました。
昌幸も悔しかったと思います。
類い稀なる才能で徳川の軍勢を何度も破ってきたのですが最後は、山の奥で寂しく死んでいくのは、
父に旅立たれてしまった幸村ですが一大転機が訪れます。
それは、家康との絶縁を決意した豊臣秀頼からの入城要請でした。
「大阪の陣」の勃発です。
その時、幸村48歳。
最後に一花咲かせられる好機。
かくして、大阪城へ入城し、昌幸の後継者として大名待遇で扱われました。
大阪城では、籠城策がとられることになったため、幸村は、唯一の手薄である大阪城の南方の高台に「真田丸」と呼ばれた出城を建設しました。
この出城は、敵を引き寄せてからの鉄砲戦術で大損害を与えました。
この働きにより、冬の陣の後には、徳川方から信濃(今の長野県)一国を条件に寝返りを持ちかけられたが、幸村は、これを拒否。
「秀頼様に召し抱えられた恩義を裏切らない」と秀頼への恩義を貫いた幸村は、その後の夏の陣で「日の本一の兵」と言わしめるほどの働きで家康の本陣に何度も突撃をかけ、家康を討ち取る勢いを見せたが、最後は、力尽き討ち取られてしまいました。
不利を承知で最後まで秀頼を見限ることなく存分に働く幸村の姿は、ゼンコクノ大名たちの心をうったに違いない。
では、また!